っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

映画『グレイテスト・ショーマン』考察

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(http://www.hollywood-news.jp/news/movie/81877/)

 

先日、ミュージカル好きの友人に誘われて観に行きました。サントラ欲しいです。

本記事では、この作品の持つ意義を筆者なりに解釈したものを書きます。

 

※以下、ネタバレ注意※

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コラム:「顔」について

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久しぶりに記事を書きます。しかも今回は特に何を書こうというのが決まっているわけではなく、「顔」をテーマにしてポコポコ浮かんできたものを徒然なるままに書き記します。(そうでもしないと記事が永遠に書けない気がしたので...)

 

 

なんというか、「顔」って不思議なんですよねぇ。

まず至る所で「顔」って「人」の代わりを担っているように思います。

例えば、Aさんに「人を描いて」と言われたときに、何かしらの人物の顔を描いたら大抵Aさんは満足しますよね。人体の全てを描いたわけではないのに。極端な話、そこに描かれた人物の首から下が犬であったりとか、土塊だったりする可能性も十分にあるわけです。それに対して、「人を描いて」と言われたときに何かしらの人物の手や足を描くだけではAさんは満足しないはずです。手や足では「人」を表象できないんですねぇ。

視点を人以外に移してみるとどうでしょう。

Aさんに例えば「犬を描いて」と言われたときには、やはり同様のことが起こるように思います。それが、「鳥」や「魚」となるとどうなるのでしょう。彼らの顔のみを描いた場合、Aさんは満足してくれるのでしょうか。もちろんそのクオリティにも依ると思いますが。生物学の論文等に描かれる鳥の容姿は頭部のみの場合が多々ありますが、かなり精巧に描きこまれていますよね。あれほどのものであればAさんは満足してくれるかもしれません。

それが一本線で描かれた至極単純なものであった場合はどうなんでしょう。これははっきり言えません。微妙な部分です。ただなんとなく、Aさんは物足りなさを感じそうです。特に「魚」の場合など。「鳥」であれば翼、「魚」であればヒレなどが欲しいですね。

しかしながら、翼のみやヒレのみでAさんが満足するとも思えません。もしも一部しか描いてはいけない、という制約があった場合、やはり顔を描くような気がします。(もちろん類まれなる感性の持ち主は別の部位を描くかもしれませんが。)Aさんは十分に満足はしないかもしれませんが、納得はしてくれるでしょう。

人と魚との違いに、「くびれ」がありそうです。人の頭部とそれ以外の部位とは、首の部分のくびれによって比較的はっきりと分かれています。それに対して魚には多くの場合くびれがありませんから、頭部とそれ以外の部位との境界が曖昧です。結果、「魚」を描く際に頭部のみ描いて終わり、とするのはなんだか収まりが悪い、というわけです。

 

しかし、やはり一部分しか描いてはいけない、という制約の下で顔を描いてしまうのは一体どうしたことでしょう。上記の通りこの点で人と人以外の顔を持つ生物との違いが無さそうですから、最初の提言を訂正しますね。「顔」はしばしば「持ち主」の代わりを担うんです。

 

「顔」の特殊性で言えば、シミュラクラ現象なども知られていますね。それらを結ぶと逆三角形ができるような三点の塊を目撃すると、それが顔に見える、というものです。人は、そして恐らく生物一般は、「顔」に対して並々ならぬ関心があるようです。視線恐怖症というものも存在します。この記事のトップ画像を探そうと試しに「顔」で画像検索してみたのですが、結果一覧の有様には確かな禍々しさがありました。「足」の検索結果一覧はなんでもなかったのですが。「恐怖症」とそうでない人、という区別というよりも、皆多かれ少なかれ視線に対する異常な意識があると思います。

こういった現象の元を辿ってみれば、弱肉強食の時代に至るのかもしれません。被食者は捕食者の襲撃が来る方向を、捕食者は被食者が逃げる方向を、命を懸けて追跡したのでしょう。その指標となるのが「顔」、特に視線というわけですね。

そこからの延長か、今日の日常会話でも、相手が自分を見たまま「あ」と言ったのか、自分の向こう側を見て「あ」と言ったのかでは、全く意味合いが変わってきます。我々は驚くほど敏感にそれを察知しますね。あとは「いやらしい目線」とかですか。目は口程に物を言う、とはよく言ったものです。

さらには、「AをBと見なす」と言ってみたり、「Cを捉える」と言ってみたり。英語でも"understand"や"think"の代わりに"see"を用います。あたかも視線の力が思考や手足の仕事を引き受けるかのように。

総合すると、「顔」の中でも特に目は、「意志」を表象するようですね。奇しくも、生死判断に際して瞳孔の拡大/縮小を確認したりもするんです。

 

目の特殊性を考えてみると、自分の意志で動かすことができる、という点があります。ただそれは、顔の中であれば口にも当てはまり、次くらいに鼻にも当てはまります。すると、確かに。口はこれ以上無い程に「意志」を表象するではありませんか。また、鼻をひくつかせることでも一定の意志表示が可能ではありませんか。これらの関係を見てみると、どうやらより複雑な動きができるほど「意志」表象の力が強いようです。ただ、口と目とで、どちらの方が複雑な動きが可能か、というのは難しい問題ですね。

特に、この文脈では口から「言葉」という特権を剥奪したほうがいいのかもしれません。何故なら、ここで語られているのは視覚情報のみによる「意志」表象なのですから。(すると、「p」と「b」や、「t」と「d」などは、それぞれ同等の情報量を持つことになるのでしょうか...)

 

ところで、ここまで「顔」と「頭部」を特に区別せずに用いてきましたが、ここにも大きな問題がありそうです。「顔」は「頭部」ではないですよね。目の前に様々な方向からの人体の写真があり、「顔を丸で囲え」と言われたら、まるで頭部の前方部分と後方部分との間に見えない境界線があるかのように囲いますよね。これも不思議ですよねぇ。そこに明確な境界など無いのに。やはり、自分の意志で動かすことのできる部分を「顔」と認識しているのでしょうか。

ではその「動かすことのできる」とは一体何なのでしょうね。手足や胴体だって動かせているではありませんか。いやいや、手足だけを動かすとなればまだよいのですが、胴体を「動かす」と言った場合、それは一体何を基点としているのでしょう。手足は胴体を基点とすれば「動かす」というのが明確に理解できるのですが、通常基点となっている胴体を「動かす」となった場合、それはどうなってしまうのでしょう。頭部から鉛直に降りる目に見えない「基軸」なるものが存在するのでしょうか。

手足を動かすことと、目口を動かすこととの違いを、我々はどのように説明すればよいのでしょうか。

 

例えば次のような説明ができるかもしれません。手足の動きがいわば「実際(actual)の動き」であるのに対し、目口の動きはいわば「仮想(virtual)の動き」である、というような考えで。

弱肉強食の風景を少しプラグマティックに考えてみましょう。被食者にとって捕食者の手足や胴体の動きは、確かな「効能」(actual efficacy)を持ちます。つまり、被食者は手足や胴体の動きによって直接的に攻撃されるのです。それに対して、捕食者の目の動きは、直接的に「効能」を持ちません。目に凝視されることで自らの命が脅かされる訳ではないのですから。目の持つ「効能」は、後続する手足・胴体の動きを予言する「意志」表象です(virtual efficacy)。ですから、目の動きはそれ自身の「効能」を持たない、と言えそうではないですか。「意志」そのものが被食者を傷つけるのではなく、「意志」が予告した身体の動きが傷つけるのです。捕食者から見た被食者に関しても同様です。

すると、「身体は正直」という言葉の意味がより深みを増してきます。「正直」も何も、判断の基準が身体に置かれているのですから。

しかし、お分かりかとは思いますが、この説明は、口に関して十分に説明できません。人間に関しては口がほとんどactual efficacyを失っていると考えることができるかもしれませんが、弱肉強食の世界では確かに、口がactual efficacyを持っています。これでは、口と手足との区別ができません。

但し、ここで「食べる」ことと「攻撃する」こととを明確に分けて考えた方がよいのかもしれません。現に我々は人間の口がactual efficacyを失っていると考えがちですが、それは我々が人間だからではないですか。人間は人間を殺せど、食べることはそうそうありません(多分)。勿論、人間が他種を食べると言っても、それは殺した後である場合が多いのですが。しかしやはり他の生物に関しても、同種間で殺し合うことはあれど食べ合うことは少ないのではないですか(ここは正直、知識不足です)この意味で、「食べる」ことと「攻撃する」こととの間には大きな違いがありそうです。

...と、こういう風にして目口と手足との違いについて色々と説明を試みていくのも一興です。

 

 

しかし、やはり手足も「意志」を表象し得るのです。実感のあることと思います。例えば、強く硬く拳を握りしめる手からは、怒りや恨み、攻撃、忍耐、或いは悲しみなどが感じられます。手話やピースサインなどの記号の話をしているのではありません。バタバタする足からは、焦りや悦び、不満などが感じられます。犬の尻尾だってそうですよね。振り回される尻尾と、垂れ下がる尻尾。すると、あんなものやこんなもの。ピシッと背を伸ばしたタンポポの茎と、しおれて垂れ下がる茎。どうして我々はそういったものから「意志」を感じてしまうのでしょう。

 

そしてこのように展開していくと、最初の提言が全く使い物にならないことになります。「顔」だけでない、あらゆる身体的部位が「持ち主」を表象してしまうのです。しかし、我々はどこかで「顔」の特殊性を感じています。不思議なことです。

ところで、何気なく行った、「意志」の表象が「持ち主」の表象を意味する、という推論は妥当でしょうか。恐らく妥当でしょう。しかしどこか奇妙です。我々が相手に取る存在(agent)は、「意志」なのですか。いやいや紛れもなくその相手自身であって、「意志」などではない、と答えたくありませんか。

脳死などとも関わりの深いテーマです。

 

 

 

入り組んだ道のりですねぇ。

映画『クリーピー 偽りの隣人』考察

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(公式ホームページより)

 

 

身内で役者談義をしている中で香川照之の話になり、本タイトルが上がりました。公開当時から気にはなりつつもなかなか見られずにいたのですが、先日友人宅のamazon primeで視聴させてもらいました。便利な時代になりましたねぇ。

 

筆者は割とサイコパス診断などが昔から好きだったので、本作が公開されたときには「とうとう火付け役が来たか」と思いました。犯罪心理学の中でサイコパスほどテレビ受けするテーマはそうそう無いんじゃないですかね(にわか)

 

今回は例外的に考察の記事から書いているのですが、気が向いたら感想の記事も書こうと思います。

 

 

※以下ネタバレを含みます※

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コラム:「『』」について

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今回は筆者のポリシーについてのお話です。

テーマは「良し・悪し」ですー。人間誰しもなじみ深い話題じゃないかなぁ、なんて思っています。

「世の中に正義も悪もない」とか「みんな優勝」とかそういう感じのお話です。

 

 

まずこの記事を書こうと思ったきっかけを話そうと思うのですが、ここは少し細々とした話になってしまうので、煩わしいようであれば読み飛ばしていただいて差し支えありません。

山口 尚 先生の論文『人間的自由の本質――土塊・人間・神』を読みました。簡単に概要をまとめるとこんな感じです:人間とそれ以外の動物とを分けるものとしての自由意志を論じた三人の先達の議論を要約し、自由意志についての哲学の潮流の中にある共通の姿勢を暴き、またさらなる注意を促す。

ここで取り上げられている三人の論をやわらかくかみ砕くと以下のような感じです

・フランクファート:たくさんある欲求の中から、どれを選んで行動(=意志)に移すか。その「この欲求を意志に移したい」という上位の欲求(=意欲)があり、これに沿って意志できることこそが意志の自由である。

・ワトソン:「意欲」も欲求に過ぎない。人間は善悪の価値判断という、欲求とは根源の異なる能力によって欲求とは別のものを欲することができる。この乖離が自由/不自由の概念を生むのである。

・ウルフ:二人のモデルを認めたとしても、不正なものを「正」と認識したまま自己改善できない者には責任を問うことができないのであって、不正を不正と気付ける健全さ必要である。

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これらを踏まえて山口先生は次のように締めくくります:論が進むごとに人間の立ち位置が高位になっていく。しかしウルフの考えもワトソンの考えも、低位にとどまり得る人間の姿を孕んでいる。即ち、「不正を『正』と認識している人」と「我々」とは本当に異なった存在なのかという疑問が残るし、人間による価値判断がいわば「神による価値判断」と同じものだとは断言できないのであって、故に価値判断も欲求の一種かもしれない。大切なのは、人間を不当に低位(土塊)に扱ってもいけないし、不当に高位(神)に扱ってもいけないということ。

 

筆者としては、山口先生のこの批評は実に的を射ていると思っていて、むしろ20世紀末においてもなおウルフのような「正・不正」を自明のものとしている論調があることに驚きました。(ウルフの論文そのものを読んだわけではないのでここは少し穴があるかもしれません...)

 

 

さて、ここから本題に入ります(導入を飛ばした人はここから!)

筆者のポリシーは「価値判断をしないこと」です。これは文化相対主義の考え方を自分なりに育て上げたものです。つまり、「あらゆるものがそれ相応の価値を持っていて、その価値はみな同等である」って感じです。リンゴも、ゴキブリも、鳥も、人間も、コンピュータも、科学も、都市伝説も、遊びも、勤勉も、トーテミズムも、神道も、イスラームも、キリスト教も、アメリカも、ウガンダも、憲法も、犯罪も、戦争も、論理も、非論理も。全て価値において平等だと考えています。そしてそれ故に「世の中に正義も悪もない」とか「みんな優勝」とかそういう感じのことを思うんです。

もちろん、それを徹底できてるかというのはまた別のお話ですが...。努めているわけです。

当ブログの注意事項の中でも触れましたが、例えば「偽り」という言葉を私は、「一般に『真実』と認識されている事柄と食い違いつつも、それを表面に出さずにあたかもそれ自身が『真実』であるかのように現れているもの」という風に用いているのであり、そこに「悪い」とか「取るに足らない」とか、一切の価値判断は存在しないのです。

 

ですから、筆者にとって「良し・悪し」という考え方や「優劣」という考え方は限りなく偏見を含んだ神話なのです。※もちろん、この「偏見」や「神話」という言葉にも価値判断は含まれていません。

では筆者は普段どのように行動を選択しているのかといえば、「それは感性に従ってだ」と言い張りたくなります。リンゴを好んでゴキブリを嫌い、法律を遵守して犯罪を避け、論理を用いて非論理をあまり用いないのは、感性がそう命じるからなのです。本能的な欲求によって罪を犯したくなっても、それと同じくらい本能的に、その後の制裁による損害を避けたくなるのです。この損得勘定を以て筆者は法律に従っているのであって、法律が「正しい」ということにはならないのです。

 

そんな考えを常日頃から抱いているせいで、例えば大学の授業の概要説明欄に「〇〇は人間だけがもつ能力である」というような文言を見つけるとついつい不愉快になってしまったりするのです。「人間からの立場だけでそれをどう証明するんだ」とか「『能力』という言葉にポジティブなイメージを持ってしまっていないか」とか。この不愉快さは、それこそその文言が「正しくない」からではなく、感性の賜物です*1

ですから、上述の哲学議論のような、人間を動物から分かつ前提を拒否したい気持ちさえあるのです。しかしながら筆者も実感として人間と動物の間に不思議な差異があることを思っているので、しばらく後にはこの気持ちは薄れます。このテーマについて話すとしたら、また今度。

 

しかしながら、このフラストレーションは先日、青山 拓央 先生の講義で少し和らぎました。哲学の議論においては、「こういう仮定の下で考えるならどうなるか」ということをやっているのであって、それぞれの仮定の下で可能な限り考察していくこと。そんなようなお話を伺いました。これを種々の言論にあてはめれば、「あぁ、そういう仮定の下で言ってて、そのことを明示してないだけなんだな」という風に不快感をぬぐうことができます。悩みの種が一つ消えました。

 

 

さてさて。ここまでのお話を踏まえて、筆者が "「", "」" の記号をどのような意味合いで用いているのかということが、筆者の皆様にもなんとなくご理解いただけたのではないかな、と思います。

一つは引用や、台詞の表現。

一つはその中身の特殊性の強調。

一つは読みやすさへの配慮。

そして、もう一つは一般論・それに対するメタ的視座の表現。

つまりは世間では一般にこう言われるよね」的な。「でも筆者はその一般論にどっぷり浸かりはしないけどね」的な。天邪鬼。

なんだかこんなような内容は中学校だかの国語の授業でやった気がしますねぇ...。上記四つも国語の教科書に載っていたような気がしますが、当ブログ、或いは筆者の論においては、四つ目が大きな比重を持っているわけです。筆者はなるべく公平を期したいのです。

 

そんなこんなで、当ブログのコラムのタイトルにおいては、いずれもテーマに "「", "」" の記号が付せられているのです。厳密な話をすると、ここには「『正・不正』は神話」というポリシーに加え、もっと実践の徹底が困難な「命名とそれによる分類は神話」というポリシーも顕れているのですが。

もっと言うならば、筆者の思う翻訳不可能性を導入すれば、当ブログ全体を鍵括弧に納めなければいけなくなるのです。このあたりが当ブログを開設するか否かの葛藤を巻き起こしたのですが...まぁ、これもまた今度。

 

 

今後ともよろしくお願いします。

 

 

(出典)

山口 尚, 人間的自由の本質――土塊・人間・神, 摂大人文科学, vol.23, pp.129-146, 2016.

*1:ここには筆者のポリシーの自己言及性による問題が垣間見えるのですが...(「正・不正」の否定をポリシーにしているということは、「正・不正」は「正しくない」と考えていることにならないか)これについてはまた今度。

資料―「サルでも分かる」『ギルガメシュ叙事詩』前編

古代メソポタミアに伝わるギルガメシュ王の伝説が描かれたギルガメシュ叙事詩。その物語を非常に簡略化したものを作りました。勿論その際に厳密さは若干失われている部分がありますが、概観としては差し支えないように配慮しました。

元々は友人に頼まれたものですが、しっかり保存しておきたかったのでここにまとめておきます。

最近ではFateという作品でも広く知られているらしいですね。元々の物語がその作品にどれほど反映されているのかは存じ上げませんが...

 

19世紀半ばにアッシュルバニパルの図書館が発掘され、1872年、G. Smithによってその中にギルガメシュ叙事詩が発見されました。

ギルガメシュ作品群と呼ばれるものは前三千年紀末には成立しており、前二千年紀初頭に『ギルガメシュ叙事詩』の骨子が完成したと考えられています。

今回参考にした標準版が成立したのは前十二世紀頃とされています。

 

イラストも漸次追加していく予定です。

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資料―レーウの『宗教現象学入門』

現在、Gerardus van der Leeuwの『宗教現象学入門』を読んでおりまして、その第一章「神」の中で取り上げられている世界の宗教現象の例が割と豊富に感じられたので、ここにメモがてらまとめておこうと思います。

創作の資料にもなるかなぁとか思います。

 

Leeuwは20世紀前半の人物で、今回筆者が手に取った田丸徳善・大竹みよ子訳書においても現在であれば鍵括弧を付けて表記されるところの単語(例えば「未開」)に鍵括弧がついていないものですから、少々西洋中心主義的な考えがまだ強い背景が伺えます。

従って、論に多少の偏りが感じられる部分もありますが、彼の提案する宗教現象学の方法自体は至って構造主義的で、宗教進化論を肯定しませんし、各現象に優劣をつける考えは主張されていません。

ここを以て、筆者は個人的にこの著書をある程度「信頼できそう」というように感じています。

 

それから、これは当然ですが、ここに挙げられる例は決して網羅的なものではありません。さらには本書に挙げられている例を全て記したものでもありません。よってここでの現象群に地理的偏りや多寡を見出すのはやや非合理的かなぁと思います。

また、以下に掲載する画像は原則として本書の各節に則っていますが、節を跨いで言及されている例もあるので厳密に各節に帰属するものではありません。

あと、⑩の「メキシコ:死者の日」は当記事の筆者が独断で加えたものです。

※表題のあとの()内が節番号と題名です。

 

 

①ディナミズム(3-原始的な力)

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②一元論(4-思弁的な力)

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③呪物崇拝(5-力ある物――呪物崇拝)

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自然宗教(6-力ある世界――聖なる木,石,水,火)

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⑤天体崇拝(7-天と天体)

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⑥動物崇拝(8-聖なる動物)

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アニミズム(9-意志と形態――アニミズム)

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⑧父母崇拝(10-母と父)

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⑨救世主信仰(11-救世主)

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追記:ラテン語において、助ける:juvo, 若者:juvenis の類似性がある

⑩祖先崇拝・王崇拝(12-祖先と王)

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⑪霊鬼・天使信仰(13-霊鬼と天使)

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⑫瞬間神・特殊神(14-形態と名称)

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⑬最高存在(15-最高存在)

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多神教(16-多神教)

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追記:一神教とは、単にある神が人間にとって従事可能な唯一のものと捉えられ、そこに思慕と力が集約された多神教にすぎない?→これは拝一神教。聖書においてはモーセの召命から唯一神教へ移行したとされる

 

[出典]

Gerardus van der Leeuw, 宗教現象学入門, 田丸徳善、大竹みよ子 訳, 東京大学出版会, 1979

Wikipedia

Google map

コラム:「美」について

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(http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/study/Math/04sousu1/14report/14-6spiral.htm)

 

今回の記事のタイトルには筆者自身一抹の不安を抱いていて...

この記事の内容は無論「美」のごく一部を論じたものに過ぎないため、これほどに包括的なタイトルに釣り合うものではないんですよね。

しかしこのブログの方針としてこれまでにもコラムのタイトルは"「〇〇(包括的名詞)」について"としてきましたし...うーん。

まぁ、許してくださいね。

 

筆者は「芸術」というものに関してはある程度自分の考えを持っているのですが、美学についてはまだ全然勉強できていません。なのでここで述べる内容は頓珍漢かもしれませんし、良くて既出かもしれません。ご了承ください。

 

 

2017年7月30日に京都大学 こころの未来研究センター 10周年記念シンポジウム   が行われまして、その中で上田祥行博士が、ヒトは視認した物体群から瞬時に統計情報を得、その平均的な物体を好む傾向がある、ということを示してくれました。

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「美人な顔」というのは平均的な顔である、というのもよく聞きますよね。

そこからいろいろ想像したことをつらつら書き連ねますね。

 

まず、人は身の回りのあらゆるサンプルから大量の視覚データを得ていて、そこから無意識の内に「平均値」を割り出している

そうして形作られた「美」という概念的モデルこそが実在しないプラトンイデア。(その成り立ちこそ異なりますが)

なので、この仮定を踏まえると、個人個人でイデアは異なることになります。勿論同じ文化圏の人ならば原則的に近いものになるでしょうし、それでも見てきた風景がまるで異なれば大きく違ったものになるでしょう。

それでも恐らく人類普遍の性向というものがあって、多くのイデアは近しい方角を向いているのではないか、というようなことも思います。確証はありませんし、その程度もわかりません。

 

さてここで、あくまで便宜的に「モナ=リザ的絵画」ゲルニカ的絵画」というものを想定してみます。

前者は、所謂「わかりやすく美しい絵画」です。どうにも厳密な定義が難しいのですが、一定の写実性があり、それ故に鑑賞者はそこに何が描かれているのかが一目でわかる。そして鑑賞者が感受するのは主にその忠実さ、輝き、温み、空気といった要素。思わず溜息が出る。そんな絵画です。

後者は、所謂「わかりにくく美しい絵画」です。そこに一般的な意味での写実性が重んじられていないのは明らかであり、それ故に鑑賞者はそこに何が描かれているのかが一目ではわからない。そして鑑賞者がそこに感受するのは主に意味、感情、抽象的観念といった要素。思わず唸る。そんな絵画です。

この二種を、前述の「平均値」の概念で以て分析してみましょう。

といっても以下の論はあくまで直感的なものなので、ただの一学生の仮説に過ぎないということをご承知ください。

 

「モナ=リザ的絵画」は、イデア(即ち「平均値」)の近似値の集合なのではないでしょうか。ここでいう「イデア」は一体誰のイデアなのかというと、第一に作者のイデアであり、第二に作者が同文化圏の人々に期待するイデアだと考えます。

つまり、ダ=ヴィンチは自分のイデアに従って、それが「世界」(西洋)の人々が普遍的に持つイデアと共通しているだろう、という期待の下にモナ=リザを描いた、ということになります。

鑑賞者はそんな絵画を見て、その絵画上に見出される「平均値」と自分の持つイデアの値とを比べ、その差が小さいほどその絵画を美しく感じる、というメカニズムです。

 

ゲルニカ的絵画」は一方、イデア(即ち「平均値」)から離れた値の集合なのではないでしょうか。

鑑賞者がその絵画を美しく感じるメカニズムは前者と同じなのですが、こちらは、そこに描かれているのが「平均値」から大きく離れた値であるために、それらの値の集合の中に「平均値」を直感的に見出すのが難しい、という事情があります。一つ一つの値に微視的に引っ張られるほど、本来そこに想定されている「平均値」が見えなくなってしまう。このようなわけで、鑑賞者はその絵画の美しさをすぐには理解できない。

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また、「ゲルニカ的絵画」にはいわば「記号的ゲルニカ的絵画」と「拡散的ゲルニカ的絵画」というような分類が想定できるのではないか、とか考えています。

「記号的ゲルニカ的絵画」は、アクセントやコントラストといった技法が絵画全体に用いられているようなパターンです。

数字で言うならば、例えば平均値0を想定するために、(-1,-1,-1,3)という4つの値が描かれて入れば、それはアクセントになります。

同じく平均値0を想定するために、(-2,2,-4,4)という4つの値が描かれていれば、それはコントラストになります。

それに対して「拡散的ゲルニカ的絵画」は、そのような技法、法則性が見出せないものです。平均値0のために、(-7,31,28,-11,-41)という5つの値が描かれているような、そんな。

 

...あ、「ゲルニカ的絵画」の例示なのに0に近い値出してましたね。ま、まぁ、「モナ=リザ的絵画」の値は少数の世界に入るということで。

 

 

しかしながらこのような定義でいくと、「モナ=リザ的絵画」と「ゲルニカ的絵画」の境界線、「記号的ゲルニカ的絵画」と「拡散的ゲルニカ的絵画」の境界線といったものは曖昧になってしまいます。

そこがどうにもうまくいかないところです。

そもそも、絵画を要素に分解するのも無理がある話ですし(機械論的自然観のようで顰蹙も買いそうですし)、その要素を数値化するのも夢想的な話です。

ですからあくまでイメージ、というような感じにはなってしまいますよね。

 

 

以上、こんな風に論を展開しましたが、冒頭で述べたように、これらはあくまで筆者の個人的な仮説に過ぎないということを今一度確認しておきます。

それから、美術や芸術には、必ずしも「美」ではなく、「醜」に訴えかける作品もあると筆者は思います。人間は「美」から得られる「快」だけでなく、「醜」から得られる「不快」にも興奮や高揚感を得るものだと思います。「神」はいつも人間の味方をするわけではありません。

今回はそちらの可能性について言及できていないのが課題ですね。