っふぃろらぼ

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映画『打ち上げ花火、下から見るか?横からみるか?』考察

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(http://gungun-tree.website/entry/2016/12/08/171319)

この記事では、映画本編の内容を踏まえて、各シーンに込められた意味合いや、結末はどのようなものであったかということを考察したいと思います。

 

※以下ネタバレを含みます※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは冒頭の、水中深く沈んでいくヒロイン・なずな とその手を掴もうとする主人公・典道。

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(http://jin115.com/archives/52173316.html)

この描写は言わずもがなという感じですが、全編を通した典道の心境を描いているのでしょう。両親に連れていかれるなずなと、それを止めてなずなを連れ去ろうとする典道。このシーンはそんな二人のメタファーと言えそうです。

 

次に、今作の制作を務めたのがシャフトだと聞いて「これは隅々まで注意を巡らさなければ」と思った私が注目したのはこちら。

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シャフトの大好物、風力発電機です。現代の象徴でもあり、すこし近未来を匂わせる。さらに背景によく溶け込むし、登場させやすい。さらには、大量に並べやすいという点もあります。シャフト。

さてこの風力発電機ですが、目の付け所としてはドンピシャでした。

まず本編の大きな流れをおさらいしましょう。なずなが母親に連れていかれるのを目の前で見過ごした典道が"玉"を投げた瞬間から典道は「ifの世界」に移行しました。「ifの世界」は典道にとって都合の良い世界であり、偽りの世界です。物語終盤、花火師が"玉"を打ち上げ、"玉"は砕け散ります。ここで「ifの世界」も崩壊したようです。

風力発電機の動きはこの流れに同期しています。

「ifの世界」に突入するまでは時計回りに、突入してからは反時計回りに、「ifの世界」が崩壊した瞬間からは再び時計回りに、回転しているのです。

このアナロジーは、風力発電機の動きから「やはり終盤で『ifの世界』は終わったのだな」と確証を得ることを可能にします。これが物語の結末を考察する手掛かりとなってきます。

 

次は、"玉"が砕け散るシーンです。ここでは同時に「ifの世界」を象徴するドーム状のガラスのような空が割れていきます。そして辺りに降る破片。そこには本編で描かれなかった未来を含む、あらゆる可能世界が映っています。そして驚くべきは、その中には典道の夢だけでなく佑介の夢も映っていることです。

これには二通りの解釈ができそうです。

一つは、その情景は佑介が"玉"を用いた場合の世界であるという場合。この場合、「ifの世界」は典道だけでなく周囲の人々との間で共有されているものと捉えることができます。皆が皆、この打ち上げ花火に際してそれぞれの夢を抱いていたのです。

もう一つは、その情景は典道がいわば「佑介のために」と想定した世界であるという場合。それこそ最初の佑介のように、典道がなずなとの逢引に尻込みしたら、ということです。最初の佑介はどこか典道になずなを譲るような素振りを見せていました。「ifの世界」での佑介を見る限りまだ踏ん切りはついておらず、あとあとなずなを取り返そうとするのでしょうが。

そのようにして典道が「自分よりも佑介の方が適任」と思えばそのような世界を作るかもしれません。この場合、「ifの世界」は典道だけが認識している世界となるでしょう。

 

最後に、結末です。

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(http://blog.2ji-iro.jp/archives/108102)

クライマックスでは、場面が切り替わって教室が映され、生徒の出席がとられています。「及川なずな」は当然のように飛ばされますが、典道が欠席していることは先生に伝わっていないようです。少しだけ映されるのは、佑介のぶすっとした顔。

これだけの情報で明確に一つの結末を想像することはなかなか容易ではありません。筆者の考察もひとつの説として受け取ってくださいね。

恐らくこの場面は夏休み明けのHRか、花火の日以降の登校日でしょう。なずなの名前が呼ばれないのは当然なずなの引っ越しの件が先生に伝わっているからですね。では何故典道が欠席しているのか。これも二つ考えられそうです。

一つは、「ifの世界」の崩壊によって、なずなと典道が駆け落ちした世界が本当の世界となり、典道はなずなと共に東京にいる、という場合です。ただこの場合にはいくつか問題があります。なずなと典道が行方不明になっている以上、双方の両親が学校側にもなんらかの連絡を入れていると考えるのが自然でしょう。さらには、なずなの「次会えるのはどんな世界かな」という台詞が意味を成さなくなってしまいます。

もう一つは、「ifの世界」の崩壊によって、一番最初の世界に戻ったため、典道はなずなを救えなかった後悔など諸々の感情によって学校を休んでいる、という場合です。この方が現実的でしょう。さらに言うと、この場合の捉え方はもう一つあります。それは、未だに典道は夢を見続けている、という見方です。作中であらゆる可能世界が示唆された以上、本編が必ずしも時系列通りとは限りません。今作で取り上げたのは典道が体験した世界のほんの一部だけ、と考えることができます。"玉"が砕け散った世界は一番最後の世界であり、これを機に典道は立ち直る決心をするということです。そのタイミングがクライマックスシーンよりも時系列的にあとであれば、クライマックスの時点では、典道はまだ夢を見続けていることになります。そしてこの場合、必然的に「ifの世界」は典道だけが認識している妄想の世界ということになります。

 

どちらの場合も佑介の表情との整合性はとれていますが、"玉"が砕け散ったのを「ifの世界」の崩壊と捉えている時点でなずなの「次会えるのはどんな世界かな」という台詞との整合性がとれていません。これに関しては、「ifの世界」崩壊後も典道は一人で妄想し続けている、と考えることもできますが、もう一つ、もっとドラマチックなアイデアがあります。

なずなの台詞の意図として、彼女はここでの別れを必ずしも今生の別れとは捉えておらず、彼女が引っ越したあともいつかもう一度会える、ということを考えているのかもしれません。いつになるかも知れないその未来、二人が再会したとき、二人の人生はどのようなものになっていて、周囲の人々、世界はどのようになっているのでしょうか。そのような意味を込めてあの台詞を言った、と考えることができるのではないでしょうか。

 

また、言うまでもありませんが、典道の夢の中のなずなはあくまで典道が作り出した幻影であってそこになずな本人の意思は介在しないじゃないか、というような議論はナンセンスとします。

 

 

以上を以て、っふぃろらぼにおける『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の考察とします。