っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

コラム:「差別」について

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(http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000107640.html)

昨今、様々な「差別撤廃」が唱えられていますねぇ。

男女差別、人種差別、外国人差別、障害者差別...

まぁ、差別撤廃を支持していることを前面に出すのであれば

「男女」差別、「人種」差別、「外国人」差別、「障害者」差別、ですかね。

「障害者」と「健常者」の区別など至極曖昧ですし、「イギリス人」と「スコットランド人」との間に本質的な違いは無いでしょう。また、「黒人」「白人」「黄色人種」というのも同じ人間が異なる環境で徐々に変化を遂げたものですし、「男女」の差というのも受精時のY染色体の有無というだけです。

こういった観点からそれぞれ区別された双方を「同じもの」として捉え、「差別撤廃」を唱えることもできるようです。

今回は、マクロに見た「差別撤廃」の展望と、筆者の個人的な意見を述べようと思います。

 

少し話は変わりますが、デカルトの『方法序説』や古代ギリシア哲学の持つ分類・区別の性質から、しばしば分類・区別の文化を西洋思想に帰属させる言説をみかけます。これを基に「差別は西洋の文化だ!」と言うことができてしまいそうなんですが、ここで注意しなければいけないのが、「西洋VSそれ以外」という対立構造がそもそも西洋によるものなんですね。これに関する話を進めるとパラダイムシフトの話になってしまうのでこれはここまでにしておきましょう。

 

さてここで、上述の「差別撤廃」の論を全て是認したとします。するとどうなるのでしょう?まず「障害者」と「健常者」、「外国人」と「国人」、「黒人」「白人」「黄色人種」、「男」と「女」の区別が無くなります。或いはそこまでいかなくとも、待遇の差が無くなります。

そこで用いられる倫理的言説は、「生まれは選べない」というようなものが多いでしょう。つまり自分に責の無いところが原因となって待遇に差が生まれるのは理不尽である、ということです。

では、差別が無くなるのは上記4項目のみでしょうか?それもおかしな話でしょう。今日、学力の差に生得の要因があることから「成績優秀者」「成績不振者」の差別を否定したり、「生命への畏敬」の観点から動物実験を非難したりする世の中です。既に「差別撤廃」の拡張は始まっているようです。

「差別撤廃」は単純なそれから、徐々に「他者理解」或いは「越境」へと肥大化していきます。「越境」は気付かないうちに「同化」に同化します。

「優秀者」と「非優秀者」の差別が愚直に撤廃されれば資本主義社会は崩壊するでしょうし、「人間」と「動物」の差別が愚直に撤廃されれば文字通り人類が滅亡するでしょう。これに関してはかつて執筆したのですが、特にパブリッシュしていません。要望があれば載せようかと思います。「男女差別」が盛んに騒がれる一方「動物差別」があまり日の目を見ないのは動物と人間の意思疎通が現行不可能だからというだけであり...みたいな感じです。実はここにこそ越境の本質があると思っているのですがうーん...ここでは自重します。

 

ここまでを一般化します。

a(1),a(2),...,a(n)間の差別を撤廃する言説をAとします。(nは自然数)

b,c,d,...についても同様です。

そして、A,B,C,D,...の全ての言説に共通している「区別・分類は空想」という言説ωが存在します。

このωを用いれば、A,B,C,D,...間の差別を撤廃することが可能です。

 

つまりは、「区別・分類は空想」として差別を撤廃する考え方は、「差別」の差別をも撤廃してしまうのです。「あちらの差別が撤廃されるならばこちらの差別も」というわけです。

このような次第で、「差別撤廃」原理主義は無限に拡大します。一方で我々人間の可能性は恐らく有限でしょうから、そこの乖離によって何らかの故障が生じるでしょう。

 

 

ここから筆者の意見です。

...と思ったのですが、考えていたより前半が長くなってしまったのでこちらは簡単に...。

当たり前のようで勘違いされることが多いのが、「差別撤廃」は「同化」ではないということです。生まれは選べないとはいえ、「精神や肉体が周囲多数と違うなぁ」と周囲から思われていることは事実です。「国籍が違う」と周囲から思われているのは事実です。以下同様に。ここにはバークリーの「存在は知覚されること」が関わってくるのですが、それは一旦置いておきます。

違いがある以上、そこに自由不自由の差があるのは自明です。しかし、ある分野において片方が有利ならば、他のある分野においてもう片方が有利であるべきでしょう。

そして、その違いを双方が受け入れるのが望ましいのではないでしょうか。そもそも、「不利」が必ずしも「マイナス」とは限りません。「不利」も、「そういうこと」として、特徴として捉えることができませんか。

既婚女性が「奥さん」と呼ばれるほどにかつては家の奥深くに閉じ込められていた、というのも、女性を「守る」ためであったわけです。「守る」と「抑圧する」が密接に結びついているという話はまた今度。生物学的にメスが襲われる存在であることは事実なのです。ムスリム女性のヒジャブ着用も元来は女性を守るためでした。*1

例えるならば、背の高い人は集合写真でいつも後ろに立つ、というような、いわば「礼儀」といえるような寛容な対応があるべきなのではないでしょうか。

 

それから。倫理を徹底できる、というのは人間の思い上がりではないでしょうか...。倫理を徹底できない無力感を自覚することも一つの倫理ではないでしょうか。

 

以上、「差別」についてだらだらと書かせていただきました。ご意見ご感想どしどし募集しております。

 

余談も余談。差別をどんどんと撤廃していってやがてすべてを「同化」させる世界観は、所謂ブラフマニズムに似ています。これはブラフマニズムの是非を言っているわけではありません。

*1:東長靖