っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

コラム:「ノリ」について

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(https://thenextweb.com/entrepreneur/2013/11/09/5-things-need-know-growing-consumer-audience/#.tnw_QkrAy8lA)

 

先日、軽音サークルの合宿に参加してきました。皆さんはいわゆる「フェス」やライブというものに参加された経験はおありでしょうか。もし敬遠されてるようでしたら是非一度だけでも見に行ってみてください。その場に立たなければわからない独特の空気がありまして、これを一度体感してみると思ったよりも世界観が変わると思います。これこそ「体験」だと思います。

今回は、音楽を主軸に、俗に「ノリ」と呼ばれる現象について思うに任せて書かせていただきます。

 

 

まず「ノリ」とは何か、という話なんですけども、改めて定義するまでもなく大体イメージできているかと思います。それこそ「フェス」やライブの会場で観客がリズムをとったり腕を振り回したりする"アレ"から、日常会話の中で冗談が示唆されたときにそれを助長する"アレ"まで、結構広く身近にあるものですね。

さて、折角なのでここでは"アレ"なんて稚拙な表現を用いずにきっちりと文字に起こしてみようかと思います。

その準備として、それぞれの「ノリ」を分析してみましょう。まずはやはり機能から。

 

◆一つ目の、「フェス」やライブでの「ノリ」について。

演奏に合わせて観客が体全体でリズムを取ったり、手を叩いたり、頭の上で手を振ったり、といった行為にはどのような機能があるのでしょうか。(あくまで「機能」です。ここでは「目的」とは申しません。この言葉を選ぶことで始まる議論については後程。)

まず、音楽に合わせて身体を動かすことで、観客自身がその音楽に没入することができます。こんなこと今更言うまでもありませんが、ちょっと立ち入って考えてみましょう。ここで何が起きているのかといえば、「身体の音楽への同期」です。何故「ノる」ことが音楽への没入に繋がるのか。これがその答えです。

単純に、「ノッていない」状態の身体がその音楽と別の周波数に生きているという風にイメージすれば、能動的に身体をその音楽の周波数に合わせて動かすことで身体をその音楽と同じ周波数に調節してやることができるというわけです。これが「没入」にあたります。

次に、この行為が演奏者の目に触れることで、演奏者を鼓舞することができます。演奏者は演奏の手ごたえを感じることができます。それによって本人も盛り上がり、より一層熱っぽい演奏ができることでしょう。そのような演奏は再び観客に還元されて「ノリ」を煽るでしょうね。どこで読んだか忘れましたが、いかにも音楽に浸っている演出をし始めたのはシューベルトでしたっけ?あと、そのような演出があったほうが演奏も上手く聞こえるという実験結果もあるそうです。出典がわからず情けないですが...

「フェス」やライブにおいては「盛り上がる」ことが重要ですから、「ノリ」という行為はこれに大きく貢献しているようです。

 

◆二つ目の、日常会話の中での「ノリ」について。

例えば「ノリ突っ込み」というような用語が思い当たります。日常会話の中での冗談に対して、それに「合わせる」ような言動を返すことにはどのような機能があるのでしょうか。(ここでは「目的」と申しても特に突っ込みが入らなさそうですね。)

ここで注目したいのは、「合わせる」という部分です。「合わせる」って一体何でしょうか。この場面では、「相手の冗談がより大きな笑いや悦びを生み出すための手伝いをする」(意味A)という意味に思えます。もっと踏み込めば、「~~ための手伝いをするために、事実と一致しない冗談をあたかも事実であるかのように扱う」(意味B)という意味にもなりましょう。

即ち、ここでの「ノリ」の機能は、より大きな笑いや悦びを生み出すこと、でしょう。

 

さて、少し気になる点があります。二つ目の「ノリ」には意味Bのような要素が含まれます。もしも全く「ノら」ないのであれば、冗談をそのまま冗談として受け取り、それが冗談であることを指摘して終了、でしょう。このような行為はよく「ノリが悪い」と呼ばれます。

これと同じようなものは一つ目の「ノリ」にも登場します。即ち、全く「ノらない」のであれば、音楽をそのまま自分と周波数の異なるものとして扱い、自分自身の周波数を離れることなくその音楽や演奏を棒立ちで傍観して終了、でしょう。これは二つ目の「ノリ」に見られた意味Bの現れであるはずです。

この二つを統合して文におこしてみますと、次のようになります。

「ノリ」には、自分の属する"世界"を一旦離脱するという要素がある。

この"世界"の部分に"理性"という言葉を当てはめても良いかもしれません。その理由は直感的におわかりかと思いますが、後で改めて触れます。

 

このあたりで、二つの「ノリ」を統合して、「ノリ」の機能を定義してみましょう。

「ノリ」の機能は、その"場"にもたらされるであろう快感を増幅させることである。

では、「ノリ」とは具体的にはどのような行為なのでしょうか。ここでは以下のように定義します。

「ノリ」とは、他者の提示した"非日常的"な世界観に譲歩して、そこに身を委ねる行為である。

如何でしょうか。上述の二つの「ノリ」から共通部分を抜き出し、できるだけ抽象的にまとめました。

 

さっ、改めて「ノリ」というものをしっかり定義してみましょう。上三つを足し合わせます。

「ノリ」とは、他者の提示した"非日常的"な世界観に譲歩し、自分の属する"日常的"な世界観を一旦離脱、他者の世界観に身を委ねることで、それが持つ"非日常"性によって双方を含むその場にもたらされるであろう快感を増幅させる行為である。

 

やりきりましたね。この営みが何になるんだ」なんて言わないでくださいね...

 

 

さてさて、少し前にちょっぴり触れた小柱「『ノリ』は目的意識を以て行うものなのか?」について。これは、こう言い換えることができます。

「『ノリ』はやろうと思ってやる行為なのか?それとも自然にやってしまう行為なのか?」

これは非常に難しい問題であります。

「やろうと思ってやる行為」を「能動的行為」、「自然にやってしまう行為」を「衝動的行為」とします。

また、前者を支配するのは「理性」で、後者を支配するのは「本能」であるとします。

加えて、「本能」を「ある行為によって直接・直後にもたらされる身体的(精神的)快楽のみを想定してその行為を行おうとする思考的枠組み」とし、「理性」を「ある行為によって間接にもたらされる、いわば将来的な身体的(精神的)快楽までをも想定してその行為を行おうとする思考的枠組み」とします。

以上の仮定のもとに論を進めますね。

まず、「ノリ」が能動的行為であるならば、「ノリ」が間接に将来的にもたらす快楽を想定していることになります。「ノリ」が衝動的行為であるならば、「ノリ」が直接・直後にもたらす快楽を想定していることになります。

ここで問題となるのは、「ノリ」によってもたらされる快感が直接のものなのか、間接のものなのか、ということですね。これが非常に難しい。"非日常"的な世界観への「没入」が直接に快楽なのか(忘我の快楽?)、その「没入」の様が他者に伝わって返ってくるレスポンスが快楽なのか。あるいは両方なのか。

 

もっとも、「いや私の場合は気付いたら体が動いちゃってるんですよ。ホント無意識に。」と主張する方がいらっしゃって、かつその方が「フェス」やライブに慣れきっている方でないのならば、それは衝動的行為なのでしょう。

ちなみに私の場合はあくまで意識して「ノッ」ているので、直感的には能動的行為だという風に感じています。

ですから、衝動的行為だという風に感じている方がいらっしゃったら、この問題は「人による」ということになりそうですが、それを言ってしまえばおしまいですよね...。

ところで、この問題のヒントになるかもしれないと思うのが、Samuel Johnsonの「音楽は背徳を伴わない唯一の官能的な愉しみである。」という言葉です。*1

 

「人による」のであれば、その人同士の違いの要因は何なのか。また、能動的行為だと感じている人をも衝動的に「ノら」せることのできる世界観はどのようなものなのか。

非常に興味深い問題です。*2

 

 

気付いたら結構長い記事になっていました。本当はもう少し触れたい内容があるのです...

久しぶりに宗教に関するお話をします。

一言でいってしまえば、この「ノリ」というものが非常に「宗教」に似ていると思うのです。

「ノリ」とは、他者の提示した"非日常的"な世界観に譲歩し、自分の属する"日常的"な世界観を一旦離脱、他者の世界観に身を委ねることで、それが持つ"非日常"性によって双方を含むその場にもたらされるであろう快感を増幅させる行為である。

これ、「ノリ」を「宗教」に変えても成り立ちませんか?

また、ここまで展開してきた議論に登場する「ノリ」を「宗教」に変えても成り立ちませんか?

長くなってしまったのであまり深くは触れないのですが、宗教の機能の中には、「信者の孤独感をぬぐう」というものがあると思っています。還元的に言えばこの「孤独感をぬぐう」ことが「快楽」となるのですが、「フェス」やライブの会場にも同じような感覚があるように思います。

音楽に「ノら」ずに立ち続けることは孤独感を伴います。それは恥の文化的な同調圧力の話だけでなく、音楽という、「依拠すべき(することのできる)(するための)対象」に依拠しないことは不安感と孤独感を生む、という点もあると思います。

 

このような宗教との類似性や等価性を持っている故に、イスラーム圏の一部で音楽が忌避・酒が禁止されたり、クリスチャンの一部が「ロックは悪魔の音楽だ」と発言したり*3七つの大罪の多くが欲望であるのだと思います。即ち、「異教」の感覚です。同じ音楽でも、その志向がそれぞれの宗教に向いていれば認められます。

ただその反面、そのような類似性や等価性を持っているからこそ、歴史的にどの宗教でも儀式等の一環として現在「麻薬」に数えられる物品を使用することがあったのでしょう。逆に、多くのロックスターが「麻薬」を使用したのもまた然り。

「理性を離れる」ということが善か悪か、というのは宗教の世界において度々問題になることかと思います。何を「理性」と呼ぶのか、という問題もありましょう。

 

 

以上。なんだかまとまりのない文章になってしまい申し訳ないです。この記事からどのような点を読み取られるかは読者の皆さんの自由です。

 

余談です。「フェス」やライブで「ノる」際に腕を前方に伸ばし斜めに傾けているあのポーズ、ユダヤ人の方々やユダヤ人"保護"派の方々が文句言ったりしないんですかね...。

*1:http://www.meigennavi.net/word/004/004899.htm

*2:2017年9月4日現在、筆者が研究テーマにしている問題です。

*3:ドイツでの実体験