っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

コラム:「美」について

f:id:st_lucies:20170923234515j:plain

(http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/study/Math/04sousu1/14report/14-6spiral.htm)

 

今回の記事のタイトルには筆者自身一抹の不安を抱いていて...

この記事の内容は無論「美」のごく一部を論じたものに過ぎないため、これほどに包括的なタイトルに釣り合うものではないんですよね。

しかしこのブログの方針としてこれまでにもコラムのタイトルは"「〇〇(包括的名詞)」について"としてきましたし...うーん。

まぁ、許してくださいね。

 

筆者は「芸術」というものに関してはある程度自分の考えを持っているのですが、美学についてはまだ全然勉強できていません。なのでここで述べる内容は頓珍漢かもしれませんし、良くて既出かもしれません。ご了承ください。

 

 

2017年7月30日に京都大学 こころの未来研究センター 10周年記念シンポジウム   が行われまして、その中で上田祥行博士が、ヒトは視認した物体群から瞬時に統計情報を得、その平均的な物体を好む傾向がある、ということを示してくれました。

f:id:st_lucies:20170924000814j:plain

「美人な顔」というのは平均的な顔である、というのもよく聞きますよね。

そこからいろいろ想像したことをつらつら書き連ねますね。

 

まず、人は身の回りのあらゆるサンプルから大量の視覚データを得ていて、そこから無意識の内に「平均値」を割り出している

そうして形作られた「美」という概念的モデルこそが実在しないプラトンイデア。(その成り立ちこそ異なりますが)

なので、この仮定を踏まえると、個人個人でイデアは異なることになります。勿論同じ文化圏の人ならば原則的に近いものになるでしょうし、それでも見てきた風景がまるで異なれば大きく違ったものになるでしょう。

それでも恐らく人類普遍の性向というものがあって、多くのイデアは近しい方角を向いているのではないか、というようなことも思います。確証はありませんし、その程度もわかりません。

 

さてここで、あくまで便宜的に「モナ=リザ的絵画」ゲルニカ的絵画」というものを想定してみます。

前者は、所謂「わかりやすく美しい絵画」です。どうにも厳密な定義が難しいのですが、一定の写実性があり、それ故に鑑賞者はそこに何が描かれているのかが一目でわかる。そして鑑賞者が感受するのは主にその忠実さ、輝き、温み、空気といった要素。思わず溜息が出る。そんな絵画です。

後者は、所謂「わかりにくく美しい絵画」です。そこに一般的な意味での写実性が重んじられていないのは明らかであり、それ故に鑑賞者はそこに何が描かれているのかが一目ではわからない。そして鑑賞者がそこに感受するのは主に意味、感情、抽象的観念といった要素。思わず唸る。そんな絵画です。

この二種を、前述の「平均値」の概念で以て分析してみましょう。

といっても以下の論はあくまで直感的なものなので、ただの一学生の仮説に過ぎないということをご承知ください。

 

「モナ=リザ的絵画」は、イデア(即ち「平均値」)の近似値の集合なのではないでしょうか。ここでいう「イデア」は一体誰のイデアなのかというと、第一に作者のイデアであり、第二に作者が同文化圏の人々に期待するイデアだと考えます。

つまり、ダ=ヴィンチは自分のイデアに従って、それが「世界」(西洋)の人々が普遍的に持つイデアと共通しているだろう、という期待の下にモナ=リザを描いた、ということになります。

鑑賞者はそんな絵画を見て、その絵画上に見出される「平均値」と自分の持つイデアの値とを比べ、その差が小さいほどその絵画を美しく感じる、というメカニズムです。

 

ゲルニカ的絵画」は一方、イデア(即ち「平均値」)から離れた値の集合なのではないでしょうか。

鑑賞者がその絵画を美しく感じるメカニズムは前者と同じなのですが、こちらは、そこに描かれているのが「平均値」から大きく離れた値であるために、それらの値の集合の中に「平均値」を直感的に見出すのが難しい、という事情があります。一つ一つの値に微視的に引っ張られるほど、本来そこに想定されている「平均値」が見えなくなってしまう。このようなわけで、鑑賞者はその絵画の美しさをすぐには理解できない。

f:id:st_lucies:20170924013539j:plain

 

また、「ゲルニカ的絵画」にはいわば「記号的ゲルニカ的絵画」と「拡散的ゲルニカ的絵画」というような分類が想定できるのではないか、とか考えています。

「記号的ゲルニカ的絵画」は、アクセントやコントラストといった技法が絵画全体に用いられているようなパターンです。

数字で言うならば、例えば平均値0を想定するために、(-1,-1,-1,3)という4つの値が描かれて入れば、それはアクセントになります。

同じく平均値0を想定するために、(-2,2,-4,4)という4つの値が描かれていれば、それはコントラストになります。

それに対して「拡散的ゲルニカ的絵画」は、そのような技法、法則性が見出せないものです。平均値0のために、(-7,31,28,-11,-41)という5つの値が描かれているような、そんな。

 

...あ、「ゲルニカ的絵画」の例示なのに0に近い値出してましたね。ま、まぁ、「モナ=リザ的絵画」の値は少数の世界に入るということで。

 

 

しかしながらこのような定義でいくと、「モナ=リザ的絵画」と「ゲルニカ的絵画」の境界線、「記号的ゲルニカ的絵画」と「拡散的ゲルニカ的絵画」の境界線といったものは曖昧になってしまいます。

そこがどうにもうまくいかないところです。

そもそも、絵画を要素に分解するのも無理がある話ですし(機械論的自然観のようで顰蹙も買いそうですし)、その要素を数値化するのも夢想的な話です。

ですからあくまでイメージ、というような感じにはなってしまいますよね。

 

 

以上、こんな風に論を展開しましたが、冒頭で述べたように、これらはあくまで筆者の個人的な仮説に過ぎないということを今一度確認しておきます。

それから、美術や芸術には、必ずしも「美」ではなく、「醜」に訴えかける作品もあると筆者は思います。人間は「美」から得られる「快」だけでなく、「醜」から得られる「不快」にも興奮や高揚感を得るものだと思います。「神」はいつも人間の味方をするわけではありません。

今回はそちらの可能性について言及できていないのが課題ですね。