っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

コラム:「『』」について

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今回は筆者のポリシーについてのお話です。

テーマは「良し・悪し」ですー。人間誰しもなじみ深い話題じゃないかなぁ、なんて思っています。

「世の中に正義も悪もない」とか「みんな優勝」とかそういう感じのお話です。

 

 

まずこの記事を書こうと思ったきっかけを話そうと思うのですが、ここは少し細々とした話になってしまうので、煩わしいようであれば読み飛ばしていただいて差し支えありません。

山口 尚 先生の論文『人間的自由の本質――土塊・人間・神』を読みました。簡単に概要をまとめるとこんな感じです:人間とそれ以外の動物とを分けるものとしての自由意志を論じた三人の先達の議論を要約し、自由意志についての哲学の潮流の中にある共通の姿勢を暴き、またさらなる注意を促す。

ここで取り上げられている三人の論をやわらかくかみ砕くと以下のような感じです

・フランクファート:たくさんある欲求の中から、どれを選んで行動(=意志)に移すか。その「この欲求を意志に移したい」という上位の欲求(=意欲)があり、これに沿って意志できることこそが意志の自由である。

・ワトソン:「意欲」も欲求に過ぎない。人間は善悪の価値判断という、欲求とは根源の異なる能力によって欲求とは別のものを欲することができる。この乖離が自由/不自由の概念を生むのである。

・ウルフ:二人のモデルを認めたとしても、不正なものを「正」と認識したまま自己改善できない者には責任を問うことができないのであって、不正を不正と気付ける健全さ必要である。

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これらを踏まえて山口先生は次のように締めくくります:論が進むごとに人間の立ち位置が高位になっていく。しかしウルフの考えもワトソンの考えも、低位にとどまり得る人間の姿を孕んでいる。即ち、「不正を『正』と認識している人」と「我々」とは本当に異なった存在なのかという疑問が残るし、人間による価値判断がいわば「神による価値判断」と同じものだとは断言できないのであって、故に価値判断も欲求の一種かもしれない。大切なのは、人間を不当に低位(土塊)に扱ってもいけないし、不当に高位(神)に扱ってもいけないということ。

 

筆者としては、山口先生のこの批評は実に的を射ていると思っていて、むしろ20世紀末においてもなおウルフのような「正・不正」を自明のものとしている論調があることに驚きました。(ウルフの論文そのものを読んだわけではないのでここは少し穴があるかもしれません...)

 

 

さて、ここから本題に入ります(導入を飛ばした人はここから!)

筆者のポリシーは「価値判断をしないこと」です。これは文化相対主義の考え方を自分なりに育て上げたものです。つまり、「あらゆるものがそれ相応の価値を持っていて、その価値はみな同等である」って感じです。リンゴも、ゴキブリも、鳥も、人間も、コンピュータも、科学も、都市伝説も、遊びも、勤勉も、トーテミズムも、神道も、イスラームも、キリスト教も、アメリカも、ウガンダも、憲法も、犯罪も、戦争も、論理も、非論理も。全て価値において平等だと考えています。そしてそれ故に「世の中に正義も悪もない」とか「みんな優勝」とかそういう感じのことを思うんです。

もちろん、それを徹底できてるかというのはまた別のお話ですが...。努めているわけです。

当ブログの注意事項の中でも触れましたが、例えば「偽り」という言葉を私は、「一般に『真実』と認識されている事柄と食い違いつつも、それを表面に出さずにあたかもそれ自身が『真実』であるかのように現れているもの」という風に用いているのであり、そこに「悪い」とか「取るに足らない」とか、一切の価値判断は存在しないのです。

 

ですから、筆者にとって「良し・悪し」という考え方や「優劣」という考え方は限りなく偏見を含んだ神話なのです。※もちろん、この「偏見」や「神話」という言葉にも価値判断は含まれていません。

では筆者は普段どのように行動を選択しているのかといえば、「それは感性に従ってだ」と言い張りたくなります。リンゴを好んでゴキブリを嫌い、法律を遵守して犯罪を避け、論理を用いて非論理をあまり用いないのは、感性がそう命じるからなのです。本能的な欲求によって罪を犯したくなっても、それと同じくらい本能的に、その後の制裁による損害を避けたくなるのです。この損得勘定を以て筆者は法律に従っているのであって、法律が「正しい」ということにはならないのです。

 

そんな考えを常日頃から抱いているせいで、例えば大学の授業の概要説明欄に「〇〇は人間だけがもつ能力である」というような文言を見つけるとついつい不愉快になってしまったりするのです。「人間からの立場だけでそれをどう証明するんだ」とか「『能力』という言葉にポジティブなイメージを持ってしまっていないか」とか。この不愉快さは、それこそその文言が「正しくない」からではなく、感性の賜物です*1

ですから、上述の哲学議論のような、人間を動物から分かつ前提を拒否したい気持ちさえあるのです。しかしながら筆者も実感として人間と動物の間に不思議な差異があることを思っているので、しばらく後にはこの気持ちは薄れます。このテーマについて話すとしたら、また今度。

 

しかしながら、このフラストレーションは先日、青山 拓央 先生の講義で少し和らぎました。哲学の議論においては、「こういう仮定の下で考えるならどうなるか」ということをやっているのであって、それぞれの仮定の下で可能な限り考察していくこと。そんなようなお話を伺いました。これを種々の言論にあてはめれば、「あぁ、そういう仮定の下で言ってて、そのことを明示してないだけなんだな」という風に不快感をぬぐうことができます。悩みの種が一つ消えました。

 

 

さてさて。ここまでのお話を踏まえて、筆者が "「", "」" の記号をどのような意味合いで用いているのかということが、筆者の皆様にもなんとなくご理解いただけたのではないかな、と思います。

一つは引用や、台詞の表現。

一つはその中身の特殊性の強調。

一つは読みやすさへの配慮。

そして、もう一つは一般論・それに対するメタ的視座の表現。

つまりは世間では一般にこう言われるよね」的な。「でも筆者はその一般論にどっぷり浸かりはしないけどね」的な。天邪鬼。

なんだかこんなような内容は中学校だかの国語の授業でやった気がしますねぇ...。上記四つも国語の教科書に載っていたような気がしますが、当ブログ、或いは筆者の論においては、四つ目が大きな比重を持っているわけです。筆者はなるべく公平を期したいのです。

 

そんなこんなで、当ブログのコラムのタイトルにおいては、いずれもテーマに "「", "」" の記号が付せられているのです。厳密な話をすると、ここには「『正・不正』は神話」というポリシーに加え、もっと実践の徹底が困難な「命名とそれによる分類は神話」というポリシーも顕れているのですが。

もっと言うならば、筆者の思う翻訳不可能性を導入すれば、当ブログ全体を鍵括弧に納めなければいけなくなるのです。このあたりが当ブログを開設するか否かの葛藤を巻き起こしたのですが...まぁ、これもまた今度。

 

 

今後ともよろしくお願いします。

 

 

(出典)

山口 尚, 人間的自由の本質――土塊・人間・神, 摂大人文科学, vol.23, pp.129-146, 2016.

*1:ここには筆者のポリシーの自己言及性による問題が垣間見えるのですが...(「正・不正」の否定をポリシーにしているということは、「正・不正」は「正しくない」と考えていることにならないか)これについてはまた今度。