っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

映画『クリーピー 偽りの隣人』考察

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(公式ホームページより)

 

 

身内で役者談義をしている中で香川照之の話になり、本タイトルが上がりました。公開当時から気にはなりつつもなかなか見られずにいたのですが、先日友人宅のamazon primeで視聴させてもらいました。便利な時代になりましたねぇ。

 

筆者は割とサイコパス診断などが昔から好きだったので、本作が公開されたときには「とうとう火付け役が来たか」と思いました。犯罪心理学の中でサイコパスほどテレビ受けするテーマはそうそう無いんじゃないですかね(にわか)

 

今回は例外的に考察の記事から書いているのですが、気が向いたら感想の記事も書こうと思います。

 

 

※以下ネタバレを含みます※

 

今回は多分に宗教学的見地を含んでいると思います。

「宗教学を勉強している」と標榜しつつこれまでの記事でその要素がてんで顔を出さなかったのは、「勉強しているからこそ適当なことは言えない」というか、そんなような意識が付きまとっていたのだ、と言い訳したいです...。

今回は考察の中でうまいこと結びつけることができたので、頑張ってみました。そこまでこじつけでもないと思います。

 

 

さて、今作の最も考察すべき内容は、間違いなくクライマックスでしょう。これは皆さん納得していただけるんじゃないかな、と思います。

バンから降りて休憩している西野ファミリー()。香川照之演じる西野が、西島秀俊扮する高倉に、飼犬(名前忘れた)を撃ち殺すよう命じます。

高倉は拳銃を持ってうつろな目で犬に近づいていき...ここで、観客が心のどこかで望みつつも拒んでいたことが起きます。高倉は立ち止まり、

「これがお前の落とし穴だ」

と声を放って振り返り、西野を撃ち殺します。

 

観客はここまでのいくつものシーンで「いや、そこ西野を撃てよ!」と思ってきたはずです。クライマックスまでに多くの登場人物は西野を殺せる場面でそれをせず、愚直に彼の指示に従ってきました。そこで疑問に包まれた観客をひとまず納得させる役割を果たすのが、<薬>の存在です。

映画後半、西野は周囲の人間を「取り込む」際に正体不明の薬物を使用していたことが明らかになります。その薬物を注射された人物はその場で半ば意識を失い、目を醒ましてからもまるで操り人形のように無気力で虚ろな存在になってしまうのです。

観客は、この<薬>を用いることで、登場人物が西野に付き従う理由を説明したくなります。「あの薬を打たれると皆西野に従ってしまうんだ」という風に。

そうして一応の納得をしつつ観客はクライマックスを迎え、今度は高倉が西野の命令に背くことができたことの理由がわからなくなるのです。

 

ところで実は、高倉の他にもう一人、西野の命令に背くことができていた人物がいるのです。それは言うまでもなく西野の「娘」であった澪(藤野涼子)なのですが、そちらについての考察は恐らくもう一本記事が書けるほどのものになってしまうでしょう。そしてもしかすると高倉の考察よりも複雑かもしれません。

というわけで、今回は高倉の考察に限定しようと思います。

 

それまでの<薬>を念頭に置いた解釈に基づいてクライマックスを理解しようとすると、次のような考えが浮かびます。

「高倉は犯罪心理学者であるし、強い理性でもって薬に打ち勝ったのだ」

「実は康子(高倉の妻)は高倉に薬を打ちこんだ振りをしただけで、二人は演技していたのだ」

前者はともかく、後者は少し無理がありますけどね。

 

もちろん、そのように理解することもできますし、それが真実かもしれません。ですが、それでカタを付けてしまっては余りにも面白くない。

前者の理解では、今作はアメリカのヒーロー映画になってしまう。(もちろんそれが「悪い」というのではありませんが)

少なくとも筆者はそのような理解で納得したくなかったので、もう少し考えてみました。

より面白い考察を導くために、対象を一蹴するのではなく信頼・譲歩して考えてみる。それが鑑賞や議論のマナーというものでしょう。

 

 

まず、<薬>の効果は「人を操り人形にする」という魔術的なものではないと考えることから始めましょう。そのような非日常的なものが登場してしまえば、今作の「日常に潜む恐怖」という主題は損なわれてしまうからです。

もっとシンプルに、<薬>の効果は「人のやる気を抑制する」ことだと考えてみましょう。違法薬物も大別すると「アッパー」(興奮剤)と「ダウナー」(鎮静剤)という効果を持ちます。

こう考えても、特に矛盾は起こらないはずです。西野曰く、<薬>を投与された澪の母親は西野を襲わなくなるようであるし(即ち襲う気力がなくなるようであるし)。高倉が助けに来たところ康子は「とっくに諦めちゃったのよ、色んなこと。」というような発言をしているし。

あれ?そういえば澪の母親も一度反乱を起こしてますね...。うーん、これはまた考えをまとめる必要がありそうですね。

では、気力が無くなってしまうとどうして西野に従ってしまうのか。それは、西野が「鬼」であると同時に神であるからです。無機質な言い方をすれば西野は紛れもなくパトロンなのです。西野に従っていれば自分の安全は確保される、自分は生活していける、ということを「取り込まれた」人たちは理解しているのです。*1

立てこもり犯は人質に食糧を与えます。かといってこれをストックホルム症候群*2と安易に結びつけて良いものかは少し不安です。

 

そもそも、西野の目的は殺人ではありません。というか、サイコパスというものはそもそも強い手段性のある行動がその特徴です。もちろん西野は金銭目的で邪魔な存在を排除している側面もありますが、一方で、「家族を作る」ことを目的にしている節があります。<薬>を使うなりなんなりの手段でもって周囲の人々を「取り込む」ことが、彼なりの家族の作り方なのです。

そしてそこでは西野は「父」に他なりません。まさしくパトロンであり、ラーイオスであり、裁きと恵みの神です。

 

そういうわけですから、神である西野を殺害することがどのような結末をもたらすのか、「取り込まれた」人たちは全く想像できないのです。

その後一体誰が自分を保護してくれるのか。もしかすると賢い西野の犯罪を立証できずに自分が殺人を問われてしまうのではないか。或いは、そのような考えが頭をもたげるより先に、「西野を殺害するなんて、とんでもない」としか言い表せない障壁があるとも言えそうです。

現に、今作はまさに西野が死んだところで終わっています。

康子が半ば狂乱しているところがポイントです。アダムとイヴ、とまで言うのはやりすぎかな?

 

さて、ここまでで、登場人物たちは<薬>の直接の効果によって西野に従っていたのではない、ということがわかりました。これを踏まえて、なぜ高倉は西野を殺害できたのかを考えてみましょう。

筆者がここに見出すのはまさに「改宗」のプロセスです。

まず、現代人(特に日本人?)は新宗教の信者や「原始的」社会の人々を見てともすれば「頭がおかしい」「少なくとも我々とは根本的に違う思考をしている」「明晰な意識を持っていない」と考えがちなのですが、理性的に考えるだけでもそれが的を射ていないことがわかります。ここに関してももっと詳しく述べたいのですが、さすがに長くなってしまうので別の機会に譲ります。

そのことを理解する中で、まずもって自分自身がイデオロギーAの中に属していることを考えれば、目の前の人がイデオロギーBの中に属しているとして、明晰な意識を持っていないはずがないことがわかります。*3ただ、個人は、他者の意識を全く想像できないことからそのようなイメージに陥りがちなのです。

そして、イデオロギーAとイデオロギーBは隔絶されておらず、得てして連続的で、不定なものです。何もかもが上手くいった日のaさんのイデオロギーをAとしても、踏んだり蹴ったりだった日のaさんのイデオロギーはいつのまにかBになっているものです。ただ、極に寄った各イデオロギーの状態の中では、他のイデオロギーを全く理解できないことから各イデオロギーが隔絶されているように思われがちなのです。*4

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かつて深く自殺を意識したことのある人(かつ、今生きている人)は、何故今自分が生きているのか、或いは何故あのときそれほど自殺を意識していたのかが不思議に思われると思います。

しかし、現にそのような人は自殺のイデオロギーから、生存のイデオロギーへと移行してしまったのです。そのまさに移行の瞬間こそが「改宗」である、というのが筆者の考えです。

最後の最後に境界線を跨ぎ超えるということ、そのことは、跨ぎ超えることによってしか完遂されません。現在自分が属しているイデオロギーは、向こう側のイデオロギーを肯定しないからです。現在のイデオロギーからの否定を全て無視し、「決して正当じゃない誤り」を犯すことによってその人は境界線を跨ぎ超えることができます。

 

 

この「改宗」の概念を高倉にあてはめてみれば、お分かりのことと思います。高倉は、西野ファミリーのイデオロギーから、外の社会のイデオロギーへと、跨ぎ超えたのです。これは決して「理性の力」ではありません。むしろ「非理性的」な行為といえます。高倉は信仰者でありながら神を殺したのですから。自分が「正しい」と信頼するものを全て投げ出して、自ら「死」*5へ身を投げ出したのです。

そして、この行為を助けたのが、彼の犯罪心理学の知識であったと考えることができます。彼はその知識でもって、今の自分の状況(「外の社会のイデオロギーが正しい」ということではなく、「自分は境界線を超えることができないでいる」ということ)というものを俯瞰できたのかもしれません。イメージ図としては、二次元のグラフが三次元になったわけです。

 

 

こうして今作のクライマックスを捉えると、その少し前のシーンでの、高倉に対する西野の「こいつ、狂ってるな」という台詞が重みを持ってくるのではないでしょうか。

 

 

さて、結局だいぶ長くなってしまいました。最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。読者の方々の何かの足しになれば幸いです。

また、不明瞭な点や指摘などございましたら気兼ねなくコメントしていただけたらと思います。

 

 

(参考資料)

カミュ, 『シーシュポスの神話』, 清水 徹 訳, 新潮文庫, 1969

*1:<薬>によって気力を奪われて彼らは最低限の生活に甘んじる、と考えることもできますし、人間を構成する二大動機「不満」「惰性」の内の前者が抑制される、と考えることもできます。「不満」「惰性」は筆者が勝手に構想するものですが。

*2:長い時間を共にした立てこもり犯と人質との間に同情・連帯感が生まれ、双方の間に強い精神的絆が生まれる現象

*3:当然ここは独我論実在論かなどを論じる場面ではありません。

*4:言い換えると、人は極に寄った状態を「イデオロギー」と認識する傾向にあるということです。また、人は徐々に他のイデオロギーに接近していく中で理解に近づいていき、それを理解したとき、既にその人はそちらのイデオロギーに移行しているということです。

*5:カミュが言うところの<哲学的自殺>