っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

コラム:「顔」について

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久しぶりに記事を書きます。しかも今回は特に何を書こうというのが決まっているわけではなく、「顔」をテーマにしてポコポコ浮かんできたものを徒然なるままに書き記します。(そうでもしないと記事が永遠に書けない気がしたので...)

 

 

なんというか、「顔」って不思議なんですよねぇ。

まず至る所で「顔」って「人」の代わりを担っているように思います。

例えば、Aさんに「人を描いて」と言われたときに、何かしらの人物の顔を描いたら大抵Aさんは満足しますよね。人体の全てを描いたわけではないのに。極端な話、そこに描かれた人物の首から下が犬であったりとか、土塊だったりする可能性も十分にあるわけです。それに対して、「人を描いて」と言われたときに何かしらの人物の手や足を描くだけではAさんは満足しないはずです。手や足では「人」を表象できないんですねぇ。

視点を人以外に移してみるとどうでしょう。

Aさんに例えば「犬を描いて」と言われたときには、やはり同様のことが起こるように思います。それが、「鳥」や「魚」となるとどうなるのでしょう。彼らの顔のみを描いた場合、Aさんは満足してくれるのでしょうか。もちろんそのクオリティにも依ると思いますが。生物学の論文等に描かれる鳥の容姿は頭部のみの場合が多々ありますが、かなり精巧に描きこまれていますよね。あれほどのものであればAさんは満足してくれるかもしれません。

それが一本線で描かれた至極単純なものであった場合はどうなんでしょう。これははっきり言えません。微妙な部分です。ただなんとなく、Aさんは物足りなさを感じそうです。特に「魚」の場合など。「鳥」であれば翼、「魚」であればヒレなどが欲しいですね。

しかしながら、翼のみやヒレのみでAさんが満足するとも思えません。もしも一部しか描いてはいけない、という制約があった場合、やはり顔を描くような気がします。(もちろん類まれなる感性の持ち主は別の部位を描くかもしれませんが。)Aさんは十分に満足はしないかもしれませんが、納得はしてくれるでしょう。

人と魚との違いに、「くびれ」がありそうです。人の頭部とそれ以外の部位とは、首の部分のくびれによって比較的はっきりと分かれています。それに対して魚には多くの場合くびれがありませんから、頭部とそれ以外の部位との境界が曖昧です。結果、「魚」を描く際に頭部のみ描いて終わり、とするのはなんだか収まりが悪い、というわけです。

 

しかし、やはり一部分しか描いてはいけない、という制約の下で顔を描いてしまうのは一体どうしたことでしょう。上記の通りこの点で人と人以外の顔を持つ生物との違いが無さそうですから、最初の提言を訂正しますね。「顔」はしばしば「持ち主」の代わりを担うんです。

 

「顔」の特殊性で言えば、シミュラクラ現象なども知られていますね。それらを結ぶと逆三角形ができるような三点の塊を目撃すると、それが顔に見える、というものです。人は、そして恐らく生物一般は、「顔」に対して並々ならぬ関心があるようです。視線恐怖症というものも存在します。この記事のトップ画像を探そうと試しに「顔」で画像検索してみたのですが、結果一覧の有様には確かな禍々しさがありました。「足」の検索結果一覧はなんでもなかったのですが。「恐怖症」とそうでない人、という区別というよりも、皆多かれ少なかれ視線に対する異常な意識があると思います。

こういった現象の元を辿ってみれば、弱肉強食の時代に至るのかもしれません。被食者は捕食者の襲撃が来る方向を、捕食者は被食者が逃げる方向を、命を懸けて追跡したのでしょう。その指標となるのが「顔」、特に視線というわけですね。

そこからの延長か、今日の日常会話でも、相手が自分を見たまま「あ」と言ったのか、自分の向こう側を見て「あ」と言ったのかでは、全く意味合いが変わってきます。我々は驚くほど敏感にそれを察知しますね。あとは「いやらしい目線」とかですか。目は口程に物を言う、とはよく言ったものです。

さらには、「AをBと見なす」と言ってみたり、「Cを捉える」と言ってみたり。英語でも"understand"や"think"の代わりに"see"を用います。あたかも視線の力が思考や手足の仕事を引き受けるかのように。

総合すると、「顔」の中でも特に目は、「意志」を表象するようですね。奇しくも、生死判断に際して瞳孔の拡大/縮小を確認したりもするんです。

 

目の特殊性を考えてみると、自分の意志で動かすことができる、という点があります。ただそれは、顔の中であれば口にも当てはまり、次くらいに鼻にも当てはまります。すると、確かに。口はこれ以上無い程に「意志」を表象するではありませんか。また、鼻をひくつかせることでも一定の意志表示が可能ではありませんか。これらの関係を見てみると、どうやらより複雑な動きができるほど「意志」表象の力が強いようです。ただ、口と目とで、どちらの方が複雑な動きが可能か、というのは難しい問題ですね。

特に、この文脈では口から「言葉」という特権を剥奪したほうがいいのかもしれません。何故なら、ここで語られているのは視覚情報のみによる「意志」表象なのですから。(すると、「p」と「b」や、「t」と「d」などは、それぞれ同等の情報量を持つことになるのでしょうか...)

 

ところで、ここまで「顔」と「頭部」を特に区別せずに用いてきましたが、ここにも大きな問題がありそうです。「顔」は「頭部」ではないですよね。目の前に様々な方向からの人体の写真があり、「顔を丸で囲え」と言われたら、まるで頭部の前方部分と後方部分との間に見えない境界線があるかのように囲いますよね。これも不思議ですよねぇ。そこに明確な境界など無いのに。やはり、自分の意志で動かすことのできる部分を「顔」と認識しているのでしょうか。

ではその「動かすことのできる」とは一体何なのでしょうね。手足や胴体だって動かせているではありませんか。いやいや、手足だけを動かすとなればまだよいのですが、胴体を「動かす」と言った場合、それは一体何を基点としているのでしょう。手足は胴体を基点とすれば「動かす」というのが明確に理解できるのですが、通常基点となっている胴体を「動かす」となった場合、それはどうなってしまうのでしょう。頭部から鉛直に降りる目に見えない「基軸」なるものが存在するのでしょうか。

手足を動かすことと、目口を動かすこととの違いを、我々はどのように説明すればよいのでしょうか。

 

例えば次のような説明ができるかもしれません。手足の動きがいわば「実際(actual)の動き」であるのに対し、目口の動きはいわば「仮想(virtual)の動き」である、というような考えで。

弱肉強食の風景を少しプラグマティックに考えてみましょう。被食者にとって捕食者の手足や胴体の動きは、確かな「効能」(actual efficacy)を持ちます。つまり、被食者は手足や胴体の動きによって直接的に攻撃されるのです。それに対して、捕食者の目の動きは、直接的に「効能」を持ちません。目に凝視されることで自らの命が脅かされる訳ではないのですから。目の持つ「効能」は、後続する手足・胴体の動きを予言する「意志」表象です(virtual efficacy)。ですから、目の動きはそれ自身の「効能」を持たない、と言えそうではないですか。「意志」そのものが被食者を傷つけるのではなく、「意志」が予告した身体の動きが傷つけるのです。捕食者から見た被食者に関しても同様です。

すると、「身体は正直」という言葉の意味がより深みを増してきます。「正直」も何も、判断の基準が身体に置かれているのですから。

しかし、お分かりかとは思いますが、この説明は、口に関して十分に説明できません。人間に関しては口がほとんどactual efficacyを失っていると考えることができるかもしれませんが、弱肉強食の世界では確かに、口がactual efficacyを持っています。これでは、口と手足との区別ができません。

但し、ここで「食べる」ことと「攻撃する」こととを明確に分けて考えた方がよいのかもしれません。現に我々は人間の口がactual efficacyを失っていると考えがちですが、それは我々が人間だからではないですか。人間は人間を殺せど、食べることはそうそうありません(多分)。勿論、人間が他種を食べると言っても、それは殺した後である場合が多いのですが。しかしやはり他の生物に関しても、同種間で殺し合うことはあれど食べ合うことは少ないのではないですか(ここは正直、知識不足です)この意味で、「食べる」ことと「攻撃する」こととの間には大きな違いがありそうです。

...と、こういう風にして目口と手足との違いについて色々と説明を試みていくのも一興です。

 

 

しかし、やはり手足も「意志」を表象し得るのです。実感のあることと思います。例えば、強く硬く拳を握りしめる手からは、怒りや恨み、攻撃、忍耐、或いは悲しみなどが感じられます。手話やピースサインなどの記号の話をしているのではありません。バタバタする足からは、焦りや悦び、不満などが感じられます。犬の尻尾だってそうですよね。振り回される尻尾と、垂れ下がる尻尾。すると、あんなものやこんなもの。ピシッと背を伸ばしたタンポポの茎と、しおれて垂れ下がる茎。どうして我々はそういったものから「意志」を感じてしまうのでしょう。

 

そしてこのように展開していくと、最初の提言が全く使い物にならないことになります。「顔」だけでない、あらゆる身体的部位が「持ち主」を表象してしまうのです。しかし、我々はどこかで「顔」の特殊性を感じています。不思議なことです。

ところで、何気なく行った、「意志」の表象が「持ち主」の表象を意味する、という推論は妥当でしょうか。恐らく妥当でしょう。しかしどこか奇妙です。我々が相手に取る存在(agent)は、「意志」なのですか。いやいや紛れもなくその相手自身であって、「意志」などではない、と答えたくありませんか。

脳死などとも関わりの深いテーマです。

 

 

 

入り組んだ道のりですねぇ。