っふぃろらぼ

自己顕示欲を満たす傍ら、ちょっぴり文化興進できたら良いなぁとか夢見るブログ

映画『グレイテスト・ショーマン』考察

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(http://www.hollywood-news.jp/news/movie/81877/)

 

先日、ミュージカル好きの友人に誘われて観に行きました。サントラ欲しいです。

本記事では、この作品の持つ意義を筆者なりに解釈したものを書きます。

 

※以下、ネタバレ注意※

 

 

と言っても、この作品にネタバレも何も無い気がしますがね。ストーリー部分は予告編で全て語られていますよね。まぁ、「ネタバレも何も無い」が何よりのネタバレになる気がしたのでこうしている訳ですが。

 

この作品はサーカスを"発明"した歴史上の人物、P.T.Barnumを主人公として彼の業績を語るものですが、本編を見るまでもなく、この作品に対してはある一つの「疑い」が発生します。それは次のようなものです:

 「こんなの、差別撤廃流行りに乗じた都合の良い美化物語でしかないのではないか」

Barnumは小人症やシャム双生児、黒人といった所謂「周縁者」を見世物にして金を稼いだ人物であり、それをあたかもヒューマニズムの走りであるかのように表現するのはいかがなものか、と。白人の監督が周縁者の口を借りて白人のヒーローを讃える言葉を垂れ流すのか、と。そのような作品が与えるメッセージなど、たかが知れているのではないか、と。

 

このような「疑い」は、ある意味で妥当です。この作品が過去の見世物商売をヒューマニズムに美化しただけのものであるという前提が正しいならば、実にこの作品は「啓蒙」者達の自己肯定の装置に過ぎないでしょう。

 

…そうとあらば、本記事ではこの前提が正しくない、と仮定して考えてみましょう。監督含め制作陣だって、このようなことは当然理解しているだろう、と考えてみましょう。この方針は他の映画考察や去年の24時間テレビについての記事など、当ブログで繰り返し用いられています。筆者はこれを<信頼>と呼んでいます。<信頼>する理由は、単にその方が生産的であるように思えるからです。

 

第一の問いは、Barnumは果たして美化されているのか、ということです。

この答えはYESでしょう。当然、我々はその歴史に直面していませんから断言はできませんけども。作中のBarnum(以下、「バーナム」)にはかなり現代人の目線から道徳性が付け足されている印象はあります。しかし、それほど単純な美化でもないように思われるのです。

まず、我々は「Barnumは存分に美化されているだろうなぁ」と思いながら本編を視聴ます。すると、バーナムが「ペテン師」であることや、彼の目的が金儲けであることが確認されるシーンや、彼の薄情さが描かれるシーンがいくつか見られることから、「それほど美化されていないようだ」①と感じるようになります。しかしやはり、このような彼のマイナス面の描き方は本編全体では弱く、「彼のプラス面の方が圧倒的に強調されているなぁ」②と思えてくるのです。

 

①について。

まず、バーナムは一言も平等原理や差別撤廃の美徳を唱えていません。あくまで各演者が演者である限りにおいて、披露の時間におけるヒーロー/ヒロインとなることを訴えているのであり、サーカスを通して彼らの地位向上を目指すようなことは考えていないようなのです。思うに、制作陣はここを頑として守ったのではないでしょうか。

また、バーナムが保守に走り、演者たちを貴族達の前に出すまいとするシーンがあり、そこから演者たちを主役とする歌へと展開していきます。このことから、このシーンが作中で重要な意味を持っている、ということは間違いなく言えそうでしょう。少なくとも、このシーンにはある程度の重みが与えられているのです。

その後バーナムは羽振りの良いスター歌手ジェニー・リンドに肩入れしてあわや不倫という、誰もが最初から予期していた「最悪のルート」を辿っていきます。

これらのことから、制作陣はBarnumが善人ではないことを重々「理解」しており、ある程度表現しようともしているようです。

 

しかしながらこのような表現は、我々のような「野暮な者共」のご機嫌を取るための、あるいは反動的にバーナムを美化するための添加物かもしれません。

 

②について。

やはり。かくして一時的に地位の低下したバーナムに対し、演者代表のレティが「確かにあなたの目的は金儲けだったかもしれない。それでもあなたは、存在すら認められていなかった私たちに家を与えてくれた」というようなことを述べています。ヒーローの救済です。

さらには、フィリップのために燃え上がる劇場へ飛び込んでいくシーンなど、あざといですね。サービス感が満載です。

このようにしてヒーローは再び光を浴び、大団円で幕を閉じます。やはり、バーナムの非善人性は付け焼刃の添加物だったのでしょうか。

 

ここで、少し屈折した考え方をしてみるのです。本作品は全体を通じて、①の要素がかなり見えにくくなっています。しかし制作陣がBarnumを単純に美化したかったとも考えられない。さらには本作品を鑑賞する観客にも目を向けると、本作品に他者問題にまつわるメッセージを求める層とそうでない層が居ることがわかります。

もしかすると『グレイテスト・ショーマン』は、①――即ち偏向的差別撤廃運動のエゴ性――を伝えるべきであることを理解しており、実際に①をある程度表現した。しかしそれに終わらず、このような意味合いを求めていない客層のために、②――即ち教科書通りのヒューマニズム――で以て作品全体を覆った。このような作品なのかもしれません。

こうすることによって本作品は、両方の層の人々を掴もうとしている、と考えるのはいかがでしょうか。つまり、本作品自体が「ペテン師」なのです。

もしも本作品の伝えたい部分が②のみに還元されてしまうのであれば、これこそまさに実りの少ない"sensation"となってしまうことでしょう。

差別撤廃が最大限に訴えられている今日に、あえて「差別撤廃者」として「差別者」を描きなおすことに、一定の意義はあるでしょう。

 

 

...しかしながら、それでは、結局本作品は①の悲観的なメッセージ性しか持たないのでしょうか。「差別撤廃の啓蒙はエゴだよ」というだけで、他者問題への光明は何も得られないのでしょうか。

そう判断するのも早計でしょう。まだ<信頼>してみましょうか。

 

第二の問いは、演者たちは本当に救われていなかったのか、ということです。

我々が差別撤廃運動や平等原理の主張を目の前にしたとき、真っ先に注意すべき点は「その主張がパターナリズムやエゴに陥っていないか」という点です。しかしそれよりもっと重要で、そして気付かれにくい点は「その主張がパターナリズムやエゴであるからといって、果たしてその主張からは何も得られないのか」という点です。

再び酒場でのレティの台詞を思い出してみましょう。「確かにあなたの目的は金儲けだったかもしれない。それでもあなたは、存在すら認められていなかった私たちに家を与えてくれた(これは全く原文に忠実ではありませんが)

 

注目すべき一点目は、バーナムが意図したか否かに関わらず、結果として演者達は「家」を手に入れたことで救われている、という主張が行われている点です。ここにおいてバーナムの道徳は全く問題にならず、演者達は結果的に「家」を手に入れたのだからその点において救われている、という点です。このような主張であれば、最早差別撤廃運動者達のパターナリズムやエゴは問題にならなくなります。

 

注目すべき二点目は、紛れもなく「家」というキーワードです。この<家>は間違いなく本作の主テーマの一つでしょう。そしてここを考えるとき、我々は本作品に対する態度を若干改めなければいけなくなるのです。

我々は本作品に何を求めるべきなのでしょうか。人間の歴史をかけて作り上げていくべき「倫理の王国」という崇高な理念が想定されており、そこへ向かう中で立ちはだかる「他者問題」という壁。それを乗り越えるための手掛かりとなるような何かしらを、本作品に求めるべきなのでしょうか。

筆者は、このような見方は片側の見方に過ぎない、と考えます。筆者の思い描く地図の中には、現状二種類の視界があります。これを暫定的に「存在論的視点」、「実存論的視点」と呼ぶことにしましょう。このとき、上述のような崇高な理念の成就、という考え方は、前者に属すのです。これに対して後者はどのようなものでしょうか。

存在論的視点においては、未来に据えられた純粋な理念の完成が目指されています。それが望まれるべきことであることは頷けましょう。しかしながら、「では具体的にどうなるの」と問われると、その返答に弱い部分があります。例えば「やがて完成する倫理の王国では、完成された倫理の下に豊かな生命の横溢が成立しているであろう」と言いつつも、そう答えている当の人や、その目の前に居る当の人にとっては、実は「倫理の王国」など全く関係の無い事柄なのですから。彼ら/我々が現に生きているのはその王国が誕生する前の世界なのです。そして、恐らくこの人生こそが、彼らや我々にとって世界の全て、時間の全てなのです。それにも関わらず、この世界、時間の外にある王国、即ち存在し得ない王国について語っているだけでは、実質何ら倫理が遂行されないことになってしまいます。

この部分に応えるのが実存論的視点です。例えば、11*11のマス目の枠線上を、左上から右下まで移動する道筋のパターンを一つ一つチェックしていくという作業がスーパーコンピュータを用いても290億年かかるという事実*1をどう考えるか。「何年かかろうが、処理方法が確立されている以上それを実行するのみであり、即ちこの問題は解決可能である」と答えるならば、それは存在論的視点です。「この問題を解決するのが人間であることは厳然たる事実である。一人の人間の存命中に処理できないどころか、この宇宙の存命中に処理できない以上、この問題は解決不可能である」と答えるならば、それは実存論的視点です。ひとまず独我論はこちらに属すでしょう。物理学の計算において非線形系のパラメータを「本質的ではないから」と捨象するならば存在論的視点、「本質的だから」と採用するならば実存論的視点です。どちらにもそれぞれの有用性があります。

 

つまり何が言いたいのかといえば、筆者にとっては、本作品は実存論的視点で考えることが可能なのです。

本作品において理想の「倫理の王国」のための振る舞いを定立することに専念すれば、今まさにバーナムの目の前で”生きている”演者達の救いが達成されない恐れがあります。この物語は、存在論的に有効なメッセージを発することよりも、実存論的に目の前の人々を救うことを選んだわけです。

そして実はこの実存性が、<家>という形で度々登場します。

通常、「啓蒙」者の位置に立っているバーナムは、佳境において妻のチャリティによって「啓蒙」されます。チャリティの「平和な生活を求める人も居る」という歌、バーナムの「私は成功を追い求めすぎていた」という台詞がこれを示します。こうしてバーナムは存在論的な「成功」の彼方へ向かうことを止め、実存論的な<家>へ帰ってきます。

エンディングにてバーナムが「子育て」へ向かうのはまさにこの結実と言えるでしょう。多くの作品にて「戦いを終えたヒーローが家庭へ帰る」モチーフが描かれるのに対し、本作品の特殊性は、ヒーローが家庭へ帰る動機が戦いの終結ではない点です。明らかに「戦い」は終わっていないし、全く区切りの良い時点でもない。いささか不自然なくらいに、バーナムはフィリップに団長の座を譲ってしまう。このエンディングを理解するための根拠は考えなければならない点であり、本記事では、この実存性をその答えとして提案します。

*1:日本科学未来館/JST ERATO湊離散構造処理系プロジェクト 『フカシギの数え方